みなさんは「努力は必ず報われる」という言葉にどんな印象を持っていますか。この言葉は座右の銘にであったり誰かを鼓舞するために使用されるなどポジティブなイメージがある一方で、この言葉に対して「そんなの綺麗事だ」と嫌悪感を感じているもいらっしゃるかもしれません。
実は私もそのうちの一人でした。目標に対して自分の私生活を犠牲にして頑張っているときに、自分よりも時間をかけてなくてもうまくいっている人を見ることが大人になるにつれ増えていき、この「努力は必ず報われる」という言葉を一時期とても苦手意識を持っていました。
しかし現在、私は「努力は必ず報われる」という言葉は半分真実で半分嘘だと考えています。
やはり自分なりに頑張ったとしてもこの世の中にはうまくいかないことで溢れています。挑戦するたびに、上には上がいるという現実に苦しむこともあります。皆さんも生きていればほとんどの人が必ず、どこかで挫折や失敗を味わってきたと思います。
そんな中で「努力」について、そして「努力は必ず報われる」という言葉について、もう一度向き合ってみようと思いこの記事を書きました。
「努力は必ず報われる」という言葉は時に自分の足枷に
今まではうまくいかなかったことに対して、「努力が足りなかった」とか「努力の方向性が間違っていた」と考えており、努力は必ず報われるという言葉を妄信していました。この考え方は自分が行動を起こすためのエネルギーとなっていた半面、自分自身を強く追い込む言葉にもなっていました。
少し前まではうまくいかなかった時や目標が達成できなかった時は、自分の努力が足りなかったから駄目だったんだと自分を否定し責めていました。そして「もしうまくいかなかったら今日休んだことを後悔するかもしれない」という未来の不安にとらわれて休むことに罪悪感を感じ、例えば部活では週に一回のオフの日も不安から体育館に行っていました。
休まず走り続けることは「もっとうまくなりたい」といった前向きな感情からくるものであれば必ずしも悪いことではないと思いますが、私の場合はその行動は次第に自分の中での義務に変わり、どんなに体や心がストレスを受けていても見ないふりをして無理をして続けることで突然限界を迎えるということを何度も経験しました。時折そのストレスや様々な不安な感情がごちゃ混ぜになって耐えきれずに一人になった瞬間涙が出てしまったり、親に泣きながら電話した日もありました。そしてやらなきゃいけない事や不安が一気に押し寄せて処理しきれずに、休みの日に一日中何もできなくなる、そして何もできなかった自分をまた責めるという悪循環です。
「努力は必ず報われる」という言葉の落とし穴
努力は必ず報われるという言葉には落とし穴があると考えています。
それは、うまくいかない時や結果が思うように出ない時期が続くと自分の今までの過程を否定して、最終的には自分は努力が足りないんだと自分自身を否定するようになり、それは常習的な自信のなさにもつながるのです。
結局どう捉えるべきか
現在は「努力は必ず報われる」という言葉について以下のように考えています。
努力は必ず報われる→「努力は必ずしも望んだ形で報われるわけではないが、必ず何らかの形で自分のためになる」という考えです。つまり努力することは、必ずいつか何かしらの形で自分の成長や変化に影響を与えてくれるという解釈をしています。
目標を決めて努力した時に必ずしも目標を達成するという結果として自分に戻ってくるわけではない、しかしその過程で学んだことや身についた力、経験、感じた感情は、今後の自分の人生、もしくは誰かの人生を救う、もしくは壁を乗り越えるヒントになるということです。
必ずしもすぐにそれが実感できるわけではありませんが、何かに向かって努力する前の自分と後の自分は良い悪いという判断を抜きにして必ず違う人間になっています。そう考えればどんな結果であっても、目標達成のために試行錯誤して何度も行動を起こしてチャレンジした過程は自分だけのものであり「成長」であると私は考えています。
現状維持は退化である
福沢諭吉
最も強いものが生き残るのではない、最も変化に適応できるものが生き残る
ダ―ウィン
競争社会で生きる私たち
激しい競争社会の中で生きている人ほど(私の場合は学校の成績や部活動のポジション争い等)、結果が出なかったときに「努力が足りていない」とか「もっと頑張れ」とかいわれがちです。もちろんそれが間違っていると言いたいのではありません。なぜなら「あの人よりも努力が足りなかった」と考えるのは、結果が出なかったことに対する一番明快な答えだからです。私自身も何かうまくいかないときに誰かのせいにすることが最も自身の成長を妨げる行為であると考えています。
しかし結果というものには様々な要因が絡んでいることも事実です。今まで生きてきた環境、生まれ持った能力、運など自分一人にはどうしようもないことがあります。(極端な例になってしまうかもしれませんが、紛争や犯罪が絶えない地域に生まれた子供と平和な国の裕福な家庭で生まれた子供では同じ努力さえさせてもらえない環境の差があることは事実です。)
だからといって最初から自分には無理だと諦めろと言っているのではありません。目標や自分の理想にに向かって、自分のできる最大限で行動しチャレンジすることはやめる必要は全くないです。
また自分が力を尽くしてうまくいかなかったとき、その経験は時に自分の大きな傷になることがあります。でもそれを怖がって挑戦しないという選択肢はとるべきではないと考えています。
「努力」とどう向き合っていくか
私が伝えたいことは、もしうまくいかなかった時でも自分をむやみに責める必要はないということです。それよりも結果を受け止めて反省し、今後今の自分の状態からどう戦っていくのかを考えまた立ち上がればよいだけなのです。
「この経験は何のためにあったのか」と自分の経験から学びを得て、また行動する過程でも私たちは過去の自分とは違う人間に変化していきます。そしてきっとそれが「成長」であると思うのです。
だからこそ私は「努力は必ず報われる」という言葉で自分で自分を追い込むことをやめようと今生きています。
「努力は必ず報われるわけではない、でもその努力は必ず自分のためになる」
だからうまくいかない日があっても一度立ち止まってまた頑張ればよいと考えることができ、今は挑戦する過程を心から楽しむことが少しずつできるようになりました。
そう考えている今でも、時折自分のための目標・挑戦がいつの間にか自分の首を絞めてしまうこともあります。今日だって部活の公式戦で自分らしいプレーができず、やっと手にしたチャンスを自ら手放すことになってしまったと落ち込み、一人になった瞬間とても悔しくて泣いてしまいました。
そしてまた結果一つで過去のがんばってきた自分を否定してしまっていることに気づき、今自分を取り戻すためにこれを書いています。
最後に
目標に向かって頑張っている時、何もかもうまくいかないと落ち込んでいる時、頑張りすぎて疲れてしまっている時、そんな時こそ自分が努力してきた過程に目を向けてほしい。
もし過去の自分と比較したときに少しでも変化があるのなら私たちは確実に成長しています。
成功にとらわれるな。成長にとらわれろ。
本田圭佑
そして自分のための挑戦を、自分自身を苦しめるものにしないでください。時には立ち止まってその目標は自分の心から叶えたいものなのかを見つめなおす時間をとるべきかもしれません。もし本当にかなえたいことであれば、そのために全力で取り組み挑戦している過程は自分の人生を輝かせる宝物の一つになりうるパワーを持っていると私は考えています。
努力が必ず報われるわけではない不条理なこの世界で、今日も生き抜いた自分を受け入れ認め、そして愛そう。
ただ、勘違いしちゃいけないのは、下に落ちるっていうことが、進化してないということではないんですよ。
下に落ちるのも、次に昇るための変化かもしれない。昇るために、落ちることが必要なこともある。本田圭佑
どんな自分であっても、自分の人生の手綱を握っているのは自分だけです。だから自分のことは嫌うよりも愛し、否定よりも肯定して生きていこう。
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